2005年12月20日

殺人考察2

前回は「殺人」という言葉から連想するイメージについて少しだけ述べた。

今回は殺人という行為をするにあたって必要と思われる

動機

について述べようと思う。


まず第一に、「衝動的」なものについて考察してみよう。

これは最近多い「かっとなってやった」にあたると思われる。
最初に考えたのは、コレにあたる動機の人間は、理性が無いのではないのか?ということだった。
自分のやった行為が社会的にどのようなもので、その結果がどういうことを引き起こすのかを考えられない(もしくは考えない)人間は、まずもって頭がおかしいとしか思えない。

しかし、最近もう少し踏み込んで考えてみた。
人間は、いちいち自分が行動するときに上記のようなことを考えるのか?
答えは結構簡単で、ほとんど考えていない。と思う。
それはそうだ。
そんなのをいちいち考えていたら、いつまで経っても行動出来ない。
一部分ではあるだろうが、一般的とまではいえないのではないだろうか。

そうなると、殺人という社会的禁忌を主に止めているのはなんなのだろうか。
次に思いついたのは、モラルである。
日本語に直すと、社会的道徳もしくは社会的常識といったところか。
しかしコレは、生育環境によって容易に変動しうるものだ。
それは世代の変移による若者の行動の変化から容易に想像できると思う。
一世代前では恥ずかしくてとても出来なかったようなことが、今では結構行われているなどというのは、探してみれば結構あると思う。
ところで、「モラルのない」人間と言われることがあるが、それは厳密には違っていて、モラルが無いわけではなく、「一般社会的な」それと違うため、「ない」のと同義というだけなのだ。
つまり、根元の部分から違う種類のものに変わる可能性がある、ということだ。

極論を言えば、人食い種族に生まれた人間が、人を殺すことに禁忌を覚えるか?ということである。
まずありえないだろう。
ということは、モラルも衝動的な殺人を止めている主な要因としては少し弱いということになるのでは……

結局のところ、自分の行為について考える行動と、モラルの二重で衝動的な殺人というのは止められているのでは、と思う。
そして、まれにその二重のチェックを吹き飛ばすようなことがあったりすると、歯止めが利かずに殺人を犯してしまう、というわけだ。

しかし、自分に関連する何もかもを壊してしまう行動にいたる時、それらについて何も考えられなくなるものなのだろうか?
子供がいれば、子供の将来にも多大な影響を与えるし、
親類がいれば非常な迷惑がかかる。
それらについて、本当に考えられなくなるのだろうか?

私は、キレルという精神状態を経験したことが無い。
だから、「怒りで何も考えられなくなる」状態というのが想像しづらい。
しかし一つのことを考えていて、ほかの事を考えられなくなるというのなら、経験がある。

もしキレルというのが本質的にそれと同じことならば、
考えられないのではなくて、精神的な均衡を保つためにあえて他の事を考えないということなのではないだろうか。

例えば、人から侮辱され、激怒したとする。
しかしその人は人を殴ってしまうと非常にまずい立場にいるとする。
そのとき、どうしても殴れないので、別のことで怒りを発散する(心理学で言う昇華)か、自分が殴れない立場であることをあえて忘れ、殴ることで怒りを発散するかの二通りがあると思う。
キレルというのは、そういうことなのではないだろうか。

キレルことが多いのは、昇華をするほど精神的に成熟していないからなのでは?
そう考えると納得がいく。

つまりは衝動的な殺人を犯す人間は、どこか精神的に未熟なところがあるのだろうということだ。
まぁ、精神的な未熟さ加減が眼に見えるわけではないから、避けるためには人を見る目を鍛えなければならないわけだが。

一般的に考えられていることと同じ結論になってしまったが、別に違う結論を求めていたわけでもないので、それでもいいだろう。

次回は、計画的なものについて考察する。
posted by GIN at 11:34| 岩手 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 何かのコラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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